熊楠の博識、そして人間性に魅せられた人々は、彼に協力を惜しまなかった。経済的援助や、精神面で支えてくれた人も多い。熊楠はそれに対して、学問上の助言や資料提供などで、報いようとした。

海外では、米国の植物学者カルキンス、ロンドン大学事務総長ディキンズ、大英博物館のフランクスやリード、国許からの送金管理・生活面を援助した中井芳楠、粘菌学者のリスター父娘、そして熊楠をアメリカに招こうとしたスウィングルらがいる。

日本においては、民俗学を通じて交流のあった柳田国男。粘菌学の三羽烏とよばれる小畔四郎・上松蓊・平沼大三郎は、標本採集とともに熊楠の私生活を様々な面で支えた。キノコにも樫山嘉一・北島脩一郎・平田寿男・田上茂八という地元の四天王がおり、献身的にキノコを採集した。弟・常楠の経済的援助も長きにわたっている。

田辺定住後は、学生時代からの親友だった医師・喜多幅武三郎や、秘書のように支え続けた地元の新聞記者・雑賀貞次郎がいた。雑賀は、没後の資料整理や活字化にも貢献した。ほかに、没後まで家族を支え業績の顕彰に力を注いだ野口利太郎など、数多くの人々が熊楠を支えた。

<strong>南方植物研究所設立趣意書</strong><br> 大正10年(1921)6月。農学博士の田中長三郎の起草による。<br> 発起人の筆頭には原敬、二番目に土宜法龍、三番目には大隈重信の名前が列挙されている。
南方植物研究所設立趣意書

南方熊楠の家族と日常