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晩 年 健脚を誇り山々を駆け巡った熊楠であったが、晩年は体の衰えが進み、外を出歩くことがあまり出来なくなった。 しかし、弟子たちが持ち込んでくる菌類による「日本菌譜」の完成の為、昼夜にわたり奮闘し、長女文枝の手助けも得てその写生と注釈入り図譜の作成に超人的な力を注いだ。 こうした状況の中でも熊楠は、さまざまな反対運動を続け、不合理なことには一歩も譲らず、庶民の福利と固有の文化を守りぬこうとしたのである。 また、1934年11月、神島を一層強固な保護の島にするため、国の史跡名勝天然記念物の指定申請書を完成させ、県知事を訪れ提出する。(1936年1月文部省に指定される)。 1935年(昭和10)、県会議員の選挙に立候補した毛利清雅が、熊楠に選挙事務長を頼んだ。両足の不自由な熊楠は奔走することも出来ず、葉書1018枚に自筆で署名し、出席した演説会で頭を下げ、挨拶文は他の者に代読させただけだったにもかかわらず、熊楠が顔を見せると聞いて大勢の人が集まり大きな拍手をうけたという。 熊楠のこうした支援もあって、毛利は悠々当選した。 1936年、日中戦争が起こり戦局が多難になってきことに加え、往年親しき交流をしてきた、毛利清雅や川島草堂、また、生涯の親友喜多幅武三郎らが死去し、その頃から熊楠は体調を崩し、やがて病床に就くようになった。 しかし熊楠は、幾度も倒れながら、「日本菌譜」完成のため、写生や注釈の書き込みをしたり、手紙による指導を続けたのである。 1941年12月、太平洋戦争が始まった頃、いよいよ病状が悪化し、医者を呼ぼうとする家族に向かって熊楠は、「もういい。この部屋の天井に美しい紫の花が咲いている。医者が来れば、この花が消えるから呼ばないでくれ。」と言って拒んだ。自らをセンダンの花にたとえていた熊楠、御進講の時、神島に咲いていたセンダンの花を思い浮かべていたのであろうか。 翌12月29日、世界が認めた在野の巨大な学者は、波瀾に富んだ生涯を静かに閉じた。75歳であった。 |
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![]() 臨終の熊楠 |
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