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熊楠の生涯

はじめに 〜 幼少・在京時代 〜 アメリカ時代 〜 ロンドン時代 〜 帰国直後 〜 那智時代 〜
 
田辺定住 〜 神社合祀反対運動 〜 上京前後 〜 昭和天皇へのご進講・ご進献 〜 晩年 〜 業績



 

はじめに

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 和歌山県が生んだ世界的な博物学者、南方熊楠はアメリカやイギリスなどで14年におよぶ独自の遊学生活を送り、1900年(明治33)に帰国した。
 以後、郷土和歌山県に住み、とくに1904年からは田辺に定住して、亡くなる1941年(昭和16)まで37年間をこの地で過ごした。
 生涯、博物学や民俗学などを中心として研究に没頭し、英国の科学雑誌『ネイチャ−』や、議論を戦わせた英国の民間伝承雑誌『ノ−ツ・アンド・クィアリ−ズ』に数多くの論文を投稿し、国内では神社合祀反対運動や自然保護運動などにも論理と精力的な実践活動で尽力した。
 偉大な在野の学者とあがめられ、また、たいへんな奇人ともみられていた(明治44年2月1日発行、『新公論』千里眼号「当世気骨漢大番附」にも東の前頭、筆頭で掲載された)反面、「南方先生」とか「南方さん」と呼ばれて、町の人々に親しまれた。
 没後60余年になる今日、当時の南方熊楠を知る人々も少なくなり、また最も身近で過ごした愛娘、長女南方文枝さんも2000年6月に熊楠のもとへ旅立った。
 熊楠が残した業績とその履歴は、『南方熊楠全集』や『南方熊楠日記』など数々の資料や、研究者の手による書籍、論文により明らかにされてきたが、現在もその発掘、調査は続けられている。
 変化の激しい現在、今まさに社会に求められている「人とのぬくもり」や「自然環境の保全」などに対する思いやりや、また「書物を読み、書き、知識を得る」ことなどの文字ばなれが進む今日、熊楠がさきがけて実践した、学問への前向きな姿勢や、エコロジ−などを、 広く多くの人々に少しでも理解してもらうため、翁の生涯を簡略に跡づけてみることにしたい。




 

幼少・在京時代

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 南方熊楠(みなかたくまぐす)は、1867年(慶応3)4月15日、和歌山城下の橋丁(現:寄合町)で、金物商を営む南方弥兵衛(39歳)、妻スミ(30歳)の四男二女の二男として生まれた。
 幼いころから人並みはずれて自然界に対し好奇心が旺盛で、記憶力も素晴らしかった。4歳ぐらいのころ、隣家から植物の本をもらい、たいそう喜んでそれを見て、大切にしたという。
 生まれつきの優れた才能は、小学校時代も目立ち、早くも小学生の頃(7歳)から、当時の国語辞典である『節用集』、実用事典『大雑書』や絵入り百科事典である『訓蒙図彙』等を筆写し自習した。このようなことから、一代で財をなした父、弥兵衛はその才能を伸ばすため、当時の商人の家としては珍しく、開設されたばかりの和歌山中学(現、桐蔭高校)に入学させた。このころから知識欲は益々高まり、漢学の素読の勉強や、蔵書家を訪ねて書物を見せてもらい、記憶して家に帰って、それを抄写などもした。
 当時の百科事典にあたる『和漢三才図会』105冊の抄写や、植物図鑑である『本草綱目』等の筆写はあまりにも有名な逸話であり、5年あまりで完成させたという。
 中学校当時は、学校の勉強はあまり熱心ではなく、弁当を早く食べ、その空弁当箱にカエル、カニなどを入れ観察し、学業には力を入れず成績はあまり芳しくはなかった。
 しかし、博物学の鳥山啓(ひらく)先生(国学、天然地理学、洋学にすぐれ、後、華族女学校、学習院の教授。『軍艦マ−チ』の作詞者)などには強い感化をうけた。
 1883年(明治16)3月、和歌山中学を卒業して上京し、神田の共立学校で勉強したのち、翌年、大学予備門(後の旧制第一高等学校、現東京大学)を受験して合格、入学した。同期生には、正岡子規、夏目漱石、山田美妙(びみょう)らがいた。
 しかし、学校の授業には興味を覚えず、校外に出て図書館での抄写や、上野博物館、動物園や小石川大学植物園などで自学し、また考古遺物や動植鉱物などの標品を採集することが多かった。
 このころ、世界的な隠花植物学者イギリスのバ−クレイや、アメリカのカーチスという植物学者が菌類(キノコ・粘菌など)を6000点集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った。
 こうした有り様で、学業には精を出さず、学年末試験に失敗したこともあって、1886年(明治19)2月帰郷し、アメリカに渡って勉強したいと父に申し出た。当初は反対していた父も、その熱意に負け渡米を許した。



 

アメリカ時代

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 アメリカ留学の決まった熊楠は、10月、和歌山松寿亭で杉村広太郎(のち楚人冠(そじんかん)と号した有名な新聞記者)ら友人たちと別離の会を開き、神戸から横浜に向かい、東京での渡航準備や紀州出身の学友達と留別送の会を催し、1886年(明治19)12月22日、横浜からシティ・オブ・ペキン号(3,120トン)に乗船して、渡米の途についた。
 これより前、親友羽山繁太郎に贈った写真の裏に、「僕も是から勉強をつんで、洋行すましたその後は、ふるあめりかを跡に見て、晴る日の本立ち帰り、一大事業をなした後、天下の男といはれたい」と、その決意の程を記している。

 ペキン号は、翌1887年(明治20)1月7日、サンフランシスコに入港した。翌日上陸して、熊楠は間もなく同地のパシフィック・ビジネス・カレッジ(商業学校)に入学した。しかし、もともと商業嫌いな熊楠は、勉強するつもりはなく、いわば外国生活を体験したようなものであった。
 8月にシカゴを経てランシングに行き、ミシガン州立農学校に入学願書を提出し、試験の結果入学を許可された。翌年4月、日本人学生二人と幾何学の勉強中、アメリカ人学生の乱暴に会い乱闘騒ぎが起こるが、熊楠が認めた訴文などにより、校長の裁判によってアメリカ人学生は停学処分となりひとまず解決した、しかし11月、寄宿舎にて小宴をし、アメリカ人学生二人、日本人学生二人とウイスキ−を飲み、「法師さん」の遊びをし大酔して、自室に帰る途中廊下で眠り、雪中寄宿舎見回りの校長に発見され、問題になることとなった、しかし、他の四人の放校を免れる為、熊楠一人が責任をとることとし、翌早朝、農学校を去りアナーバーに移った。

 アナーバーには州立大学があり、35.6人の日本人留学生がいて、優秀な人材が集まっていた。熊楠はそれらの学生と大いに交遊したが、自分は学校には入らず、読書して独学をするほか、しきりに山野を歩き植物採集に励んだ。とくに菌類や地衣(こけ)類のような隠花植物に関心を強めた。
 そして、1889年(明治22)10月、近代生物学の中興と言われるスイスの大博学者『コンラ−ド・フォン・ゲスネル伝』を読み、「日本のゲスネルとなろう」と心に誓った。このことがあって、熊楠が生涯、隠花植物の道を歩み続けることになるのである。
 また、文通上の知人となったフロリダで地衣類を蒐集するアメリカ退役大佐カルキンスよりフロリダにはアメリカの学者の知らない植物が多いと聞き、アナーバーにて薬入提箱、薬品数種、植物圧搾器など購入し、顕微鏡2台、書籍若干、ピストル1挺、その他捕虫機械などを携帯し、1891年(明治24)4月、汽車でフロリダに向かい、3日かかって同州ジャクソンビルに着いた、ここには親切な中国人(江聖聡)がいて、面倒をみてくれ、3ヵ月余り熱心に植物・動物などの採集活動を行なった。合衆国最南端のキーウエストという小島でも採集を行った後、9月中旬キューバ島のハバナに向かった。
 ハバナには日本人はいないと思っていたが、着いて40日ほどして、思いがけず外人サーカス団の曲馬師、川村駒治郎が訪ねてきた。それが縁でサーカス団に加わっていた3人の日本人と出会い、ハイチのポルト−プランス、ベネズエラのカラカス、バレンシア、ジャマイカ島などと、しばらく行を共にし、熊楠は象使いの下働きのようなこともしたという。
 こうして、西インド諸島の各地を回っている間に、各種の生物、とくに珍しい菌類や地衣類を採集したのである。この旅行中はキューバ独立戦争の最中で、革命軍に身を投じて負傷したというようなことが伝えられたが、そうした事実はなかった。
 1892年(明治25)1月、ジャクソンビルに戻り、八百屋の中国人江聖聡の家に厄介になり、そこでフロリダやキューバなどで採集した植物を、夏までかかって整理した。8月に江が店を閉じ、故国、中国へ帰るようになったこともあって、かねてから渡英することに決めていた熊楠は、ニューヨークに行き、9月14日シティ・オブ・ニューヨーク号に乗船した。アメリカ滞在は6年であった。




 

ロンドン時代

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 熊楠の乗った船は大西洋を渡り、1892年(明治25)9月21日、イギリスのリバプール港に到着した。熊楠は首都ロンドンに入り、横浜正金銀行ロンドン支店長の中井芳楠を訪ねた。
 中井は和歌山県人で、南方家とは古くからの知り合いであった。この中井から、弟常楠の手紙を受け取り、敬愛していた父弥兵衛の死去の知らせを受け、手紙を読んだ熊楠は打ちのめされる衝撃をうけ、途方にくれた。
 ロンドンでは下宿代が安い下町に住み、植物標本の整理をしたり、カルキンス、アレンなどとしばしば植物標本や手紙の交換をする一方、大英博物館や南ケンシントン博物館、美術館を訪ねたりしていたが、そのうち、諸国を巡業していた足芸人の美津田滝次郎に出会い、その宅で知人の片岡プリンスという東洋骨董商を紹介され知り合いになった。
 そのころ1893年8月17日、アメリカ滞在の時より購読していた英国第一の週間科学雑誌『ネイチャー』に M.A.B なる人の「星宿構成に関する5条」の質問を見出し、下宿屋の老婆に借りた不備な辞書をたよりに、答文「極東の星座」を起稿をすることとなるのである。このとき、片岡プリンスは身なりこそみすぼらしいが、熊楠の博識の深さに気付き、大英博物館の考古学・民俗学部長で富豪のサ−・ウオラストン・フランクスに紹介した、また「極東の星座」の原稿の指導を受けたこともあって、博物館に出入りするようになった。
 科学雑誌『ネイチャー』への答文、「極東の星座」は30日で完成し、それが『ネイチャー』に掲載されて、一躍有名になり識者に名を知られるようになった。以後、しばしば同誌に論文を発表した。更に随筆問答雑誌『ノーツ・アンド・クィアリーズ』にも寄稿を始め、多数の論考や答文を発表し、帰国した後も議論に参加し東洋学の権威者としてその名を馳せた。
 こうして熊楠の名が知られるようになり、ロンドン大学事務総長ディキンスや、フランクスの後任ダグラス、リ−ド部長などとも、親交を結ぶに至った。
 大英博物館には毎日のように通って、収蔵されている古今東西の稀覯書物(容易には見られない書物)を読みふけり、主として考古学、人類学、フォ−クロア(民俗学)、宗教学などを勉強した。
 また同時に、目を通した書物は厚いノートに筆写した。そのノート類は、52冊もあり、「ロンドン抜書(ぬきがき)」としていまも南方邸や、南方熊楠記念館に保存されていて、英・仏・独・伊・スペイン・ポルトガル・ギリシャ・ラテンなどの小さい字で、ぎっしりと書きこまれている。
 熱心に大英博物館に通ううち、熊楠の博識に感心した同館東洋図書部長のダグラスから、館員になるよう勧められたが、自由の身である方がよいと断った。しかしながら、自分の勉強をしながら、同館の書籍目録の作成や仏像の名称の考証などを手伝った(『大英博物館日本書籍目録』、『大英博物館漢籍目録』の編纂に尽力した)。これには、幼少のころから古典や百科事典に親しみ、厖大な数の書籍を読み写したことによって、蓄えられた知識が役立ったことであろう。

 ロンドンでのことで特筆したいのは、中国革命の父といわれる孫文(そんぶん)と知り合ったことである。1897年(明治30)3月、大英博物館のダグラスの部屋で初めて出会った2人は、たちまち意気投合し、毎日のように行き来して、時のたつのも忘れて語り合った。当時の熊楠の日記には、その様子が簡潔に記されているが、その親密さがにじみ出ている。しかし、2人の交遊はわずか4ヵ月で終り、孫文は7月の初めにロンドンを出発して東洋に向かった。
 また、土宜法竜(後年高野山管長)との出会いは、土宜がアメリカ.シカゴの万国宗教大会に日本仏教代表委員として講演し、その後英国の正金銀行ロンドン支店長中井芳楠の家であった。 年上の土宜とは、最も心を許しあい宗教学を論じあい、その後も生涯書簡の交流がつづくが、土宜に贈られた法衣に袈裟(けさ)がけ姿で大英博物館に通ったりして人々を煙にまいたりもした。熊楠がロンドンにいる間に、日本の知名の士が何人も訪れてきたが、誰もがその博学に驚くとともに、日常生活でのあまりの無頓着さに強い印象をうけた。
 熊楠は、その学識が一部の学者などから高く評価される一方で、東洋人だということでさげすまれるようなこともあって、幾度となく、乱暴的なふるまいをしてトラブルを起こし、1898年(明治31)12月、博物館で女性の高い話し声を注意して、ついに大英博物館を去らねばならぬことになった。
 日本からの送金も途絶えがちで、翌年英国学士会員、バザ−博士の保証により、ナチュラルヒストリ−館(生物・地質・鉱物等の研究所)に通って自学したり、南ケンシントン美術館の日本書題号の翻訳の仕事を短期間したり、また、友人と浮世絵の販売などをしたりして、生活を支えた。ケンブリッジかオックスフォ−ド大学に日本学講座が設けられて、助教授になれるかとも期待していたが、その講座は開設されず、生活費にも困り、8年間過ごしたイギリスを、失意のうちに離れる決心をした。
 1900年9月1日ロンドンの南ケンジントンの下宿を出発し、テムズ川の港で日本郵船の阿波丸に乗船、帰国の途についた。その日の日記には、「4時出帆、夜暫時甲板に出、歩す」と書かれている。




 

帰国直後

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 1900年(明治33)10月15日、45日間の船旅の後、神戸港に着いた。弟常楠が出迎えたが、無銭で蚊帳のような洋服一枚着た兄のあまりにも粗末な姿に驚き、 また、何の学位もとらず、おびただしい書物と標本ばかりであるのにあきれはててしまった。
 14年振りの帰国であったが、長男、弥兵衛破産以後、常楠方は経済的に没落しているとのことで、すぐ家には行けず、亡父が世話をしていた大阪・泉南の深日(ふけ)村谷川にある理智院という寺に案内され、一旦そこに落ち着いた。しかし、常楠方は店も倉も亡父の生存中より大きく建て増し繁盛していると聞き、翌々日、和歌山に帰り弟の家に寄宿した。
 ロンドンを去る前、大英博物館の英国学士会員であるジョ−ジ・モレイから、日本の隠花植物の目録を完成するようにすすめられており、帰郷し、ようやく、隠花植物採集などの研究が再び緒についた頃、イギリスで親しかった福本日南より、孫文が横浜居留地に中山樵(しょう)という名前でいることを知らされ、早速手紙を書き、1901年(明治34)2月14日、中国を亡命中の孫文がわざわざ和歌山の南方家まで訪ねてきた。4年ぶりの再会では、あったが、刑事などにつけられ、十分懇談できなかった。しかし、危険をおかし、和歌山を訪れた孫文は熊楠とロンドン以来の旧交を温めた。このとき、常楠父子もまじえて記念撮影をした。
 孫文は、和歌山を去る際、愛用のパナマ帽を熊楠に残し、また自分の保護者である、犬養毅(いぬかいつよし)への紹介状を送ってきたりした。その紹介状はついに使われることなく南方邸に保存され、パナマ帽は現在、紀州白浜の南方熊楠記念館の展示ケ−スの中で公開されている。
 孫文とはその後もしばらく文通が続き、ハワイで採集した地衣の標本を送ってきたりしたが、次第に疎遠になり、和歌山での別れが永遠の別れとなった。孫文の死後、熊楠は「人の交りにも季節あり」と記し、親交のあった当時を回想してさびしさを表わしている。

 和歌山では、熊楠は常楠の家に1カ月余り居候し毎日大酒し(注;兄弟あきれ果て、予、「酒屋が酒徒を悲しむ理由如何」と問えば、常楠、「いかにも酒屋は酒徒の多きを悦び候へども、家兄のごとく無銭多飲の客はあらずもがな」とやりこめられ返答出来ず。とある)、
 その後、淡水藻の一種「光り藻」を採集した、和歌山秋葉町の円珠院(えんじゅいん)に寄宿し、和歌山市付近を歩き回って、隠花植物などを採集し、研究に没頭した。
 しかし、座敷を散らかし不潔であるとして寺から出て行くように言われるはめになった。常楠の家へ戻ってみたが、やはり弟常楠の家族としっくりいかず、しばらく熊野へ出かけることを思い立った。帰国後これまで1年ほどの間に、和歌山で採集した隠花植物は、菌類を主に全部で1277種に達した。




那智時代

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 弟常楠の経営する南方酒造販売店の支店が勝浦にあったので、1901年(明治34)10月末、そこへ行くことになり、和歌山から乗船した。
 先ず、湯川村の宿に落ち着き、海藻や淡水藻を精力的に採集し、その後那智の大阪屋旅館に移った熊楠は、毎日毎日周辺を歩き回り、菌類、藻類などの採集に明け暮れた。そんな冬のある寒い日、那智「一の滝」の下で地衣を採集していた時、背広を着た1人の青年が来たので、不審に思い問いかけ、色々話しをすることとなった。この人が生涯熊楠の門弟として粘菌研究に協力することになる小畔(こあぜ)四郎で、当時日本郵船に勤めていた。
 小畔は、その後、航海の寄港地で標本を採集しては熊楠に送り、経済上の援助もした。また、親友である上松蓊(しげる)を紹介したが、上松も小畔とともに、終始物心両面から研究の支援をしたのである。
 初期の那智での調査中に、笑い話のようなこともあった。村の人々の間で、熊楠が採集しているのは薬草で、高い値で売れるらしいと、うわさになった。リユウビンタイというシダを採ってきて、宿の庭に植え、毎日観察していると、大勢の人々がぞろぞろそれを見に来たりした。中には、畑の作物を引き抜いて、代わりにそのシダを植えたものがいて、いつまでたっても買い手が来ないと、熊楠のところへ来て文句を言い、かえってたしなめられるような一幕もあったという。
 4ヵ月余り勝浦・那智で採集、調査をした後、いったん歯の治療のため和歌山へ帰り、1902年(明治35)5月、再び那智へ帰る途中、田辺に立ち寄った。和歌山中学以来の親友で眼科医の喜多幅武三郎に再会するためであった。
 喜多幅家に滞在中、田辺の山林家で亡父の知人多屋寿平次を訪ねた。多屋家の四男勝四郎と親しくなり、同年6月1日、勝四郎の案内で田辺湾に浮かぶ「神島」(かしま)に初めて渡った。熊楠はその後、神島と深いかかわりをもつことになるが、昭和天皇を神島にお迎えしたのが、偶然にも27年後の同月同日であった。
 6月の初めから3ヵ月ほど鉛山村(白浜)湯崎の湯治宿に滞在し、瀬戸村や鉛山村を歩き回り、さらに足を伸ばして富田の浜や椿などで採集した。
 再び10月に田辺に戻って、泉治平(写真師)、湯川富三郎(旅館主)、川島草堂(そうどう)(画家)らと交遊した。また多屋家の次女たかにほのかな感情を抱いたのも、このころのことである。
 12月の上旬、田辺から船に乗って串本に上陸し、大島・潮岬などで採集した後、在米当時親しくしていた古座川町、佐藤虎次郎(旧姓:茂木虎次郎)の婚家先を訪れ、また一枚岩を見て、那智に帰着した。
 那智では、大阪屋という旅宿に滞在して、第2回の採集・調査を再開した。雨の日も風の日も休むことなく、時には、帰りが遅くなり人々が心配して迎えに出たりしたほどで、那智山一帯、勝浦、湯川などで、採集活動に専念した。
 この那智滞在中は、昆虫や植物を採集し、顕微鏡標品や彩色図譜を作り、また『ル−ソ−自懺文』、『ブルタ−ク伝』、『ヘンスロ−花原論』、『栄華物語』などおびただしい数の書物を読み、ディキンズとの共訳『方丈記』草稿の完成や、ディキンズ大著『日本古文篇』の校正などとともに、『ネイチャ−』、『ノーツ・アンド・クィアリーズ』への寄稿を再び始め、多くの論文を発表した。
 世界中の知識を驚異的に学んだ熊楠は熊野の大自然の中で「心界と物界」の交わりを追求し、土宜法竜とあいだで宗教論をはじめ、自然界と生命についての議論に火花を散らした時期でもあった。 また、在英時代の終わりに構想がたてられた、英文論考の一つの到達点を示すと言われる「燕石考(えんせきこう)」が補筆、完成された。
 足かけ3年、21カ月にわたる熊野植物調査を完了した、採集した菌類は、袋入1,065、箱入4、画添464、変形菌48、新セリ-ス6、計2533、また、藻類は淡水541、鹹水(かんすい)311、計852と日記にある。
 1904年(明治37年)10月6日、勝浦を出発し、途中採集をしながら、大雲取(おおくもとり)、小雲取(こぐもとり)を越え、川湯、中辺路(なかへち)を通って田辺へと歩いた。




 

田辺定住

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 1904年(明治37)10月田辺へ来た熊楠は、喜多幅武三郎、多屋寿平次一家、川島草堂らと交わるうち、この地が「至って人気よろしく、物価安く静かにあり、風景気候はよし」ということで、気に入って、ついにここに落ち着くことになった。
 中屋敷町中丁北端の多屋家の持ち家を借り、和歌山に置いていた書物を取り寄せるなどして、気ままな生活を始めた。
 多屋家の借宅は田辺の古くからの住宅地で、近くに料亭や芸妓の置屋も多くあり、知人達をそこに集め、また芸者を呼び、飲み、得意の都々逸や、大津絵などを唄ったり、奇芸をして騒ぐことが多かった。
 1906年(明治39)7月27日、40歳の時、喜多幅武三郎の媒酌により、闘けい神社(※)の宮司田村宗造の四女松枝と結婚した。松枝は28歳であった。
 田村宗造はもと紀州藩士であった漢学者で、中国の故事を引いて諭(さと)し、松枝を育て、また松枝は裁縫、生け花などを教え、貧乏なる父に孝行し嫁すひまもなかったいう。 
 翌年7月、長男熊弥(くまや)が生まれた。我が子を初めて見た熊楠は、日記に「児を看て暁(あかつき)近くまで睡(ねむ)らず」と書き、父親となった喜びの気持ちを表わしている。
 那智から田辺に移り住むと、和歌山、白浜、熊野で採集した粘菌を始め標品の整理や、また田辺周辺における採集活動を再開した。
 田辺周辺では、西側の、会津川東畔、上野山、西神社、東王子神社、高山寺、糸田猿神祠、稲成神社、動鳴気、竜神山、天王池、秋津川、下芳養、西ノ谷。東側では公園、扇浜、闘けい(※)神社及びくらがり山(後丘)、花畑、横手八幡、磯間猿神祠、六本鳥居、文里、菖蒲谷を日常的な採集場所とし、少し遠くは神島、跡ノ浦、朝来まで足をのばし、泊まりがけでは、1906年(明治39年)1月に新庄村鳥ノ巣へ5日間、同年11月から12月に日高郡川又村へ6日間、1908年(明治41年)6月に栗栖川水上へ3日間、同年11月から12月に中辺路・川湯・瀞峡・玉置山・萩・本宮・湯の峯 へ27日間、1910年(明治43年)11月から12月に、中辺路町兵生(ひょうぜ)・安堵山・坂泰官林・龍神村丹生川へ47日間の植物採集行を行った。
 これらの短期、また長期の植物採集行のなかで、川又村の真妻神社で「真紅の粘菌」や、湯の峯 での「ユノミネシダ」、兵生千丈谷での「熊野丁子蘚(くまのちょうじごけ)」の発見は非常な喜びとして日記の中にも記されている。
 採集行の帰り、小生暑気のとき故、丸裸で採集用具を持ち、供の者襦袢(じゅばん)裸でブリキ缶2個を天秤棒で担い、大声をあげながら、共に山をかけ下りたので、熊野川(田辺市伏菟野(ふどの)の小字)で田植をしていた女性たちが、天狗でも降ってきたのかと驚き、泣き叫んで逃げたということである。また、 奈良県の玉置山よりその下山途中で道に迷い山中に野宿したとか、兵生の製材山小屋にて「美女に化けた大蛇」の話しなど苦難もあり、また採集の喜びもあったようである。

 1905年秋、46点の粘菌標本を大英博物館に寄贈した。これが、イギリス菌学会会長ア−サ−・リスタ−の目にとまり、東京帝国大学三好教授が送った標本に続き、「日本産粘菌第二報」としてイギリスの植物学雑誌『ジャ−ナル・オブ・ボタニー』第49巻に発表された、これが機会となり、リスター父娘との交流が始まった。以後、世界的な粘菌学者としてその地位をゆるぎないものとし、昭和4年の御進講に繋がっていくのである(1921年(大正10年)3月より、皇太子裕仁親王、イギリス外5ヵ国に外遊)。

 田辺での生活は、熊弥が誕生したのち、夫婦不和で松枝婦人が実家に帰ったりしたこともあったが、その後は酒を飲むことも少なくなり、また、熊弥の一々のしぐさや幼児言葉を詳細に日記につけており、熊弥への深い愛情と将来への期待をこめたことがうかがい知れる。 しかし、熊楠の日常の生活のサイクルは午前11時頃起床し、午後から翌朝5時頃迄、標品整理、図記、調べ物、読書、執筆などであったため、松枝夫人は機(はた)を織りながら、お手伝いの者と、泣き虫であった熊弥の世話に大変気を遣っていたもようである。 
 この頃1910年(明治43)7月、多屋家の借家の前の宅で米を搗(つ)く音が耳障りになり、同じ中屋敷中丁の、藤木八平の別宅に転居し、別棟の書斎を建てた。
 翌年3月、全国行脚の途中田辺に立ち寄った、俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)が来訪し、
     「木蓮(もくれん)が蘇鉄(そてつ)の側に咲く所」 という句を詠んだ。
 1911年(明治44)10月には長女文枝が誕生した。
   
 隠花植物の採集や粘菌の研究に力を入れる一方で、1909年(明治42)ごろから、知人や小学校図書室などが所蔵している書物を次々と借りて筆写した。とくに法輪寺(ほうりんじ)所蔵の『大蔵経(だいぞうきょう)』の「抜き書き」は、毎日のようにつづけて3年かかり、たいへんな精力を費した。「読むというのは写すこと、単に読んだだけでは忘れるが、写したら忘れない」を信条とし、人にすすめ、自分も実行したのである。それが『田辺抜書』として61冊にのぼっている。
 熊楠は、帰国後しばらくはイギリスの雑誌に論文を発表していたが、やがて日本の専門雑誌や新聞に投稿するようになった。1904(明治37)からは『ノ−ツ・アンド・クィアリ−ズ』と並行して『東洋学芸雑誌』などに精力的に寄稿するようになった。
 熊楠の論文は文字通り博引旁証(はくいんぼうしょう)で、様々な文献を引用するのが特色であるが、同時に見聞による民俗資料も取り入れられている。その際、すばらしい記憶力と人びとから聞いておいたことが活用されることになる。そうした一例として次のような話がある。
 今福町の風呂屋からの帰り、広畠岩吉(江川の生まれで生花の師匠)の家によく立ち寄ったが、ここには物好きな人々が集まり、世間話をするグループができていた。熊楠はここで耳にした話を時期を隔てて聞き直し、もし違いなどがあれば、それを指摘して、本当のところを確かめたりするので、「先生の前ではうかうかといい加減な話はできない」と、笑ったものだという。
 熊楠は、何でもないような話でも、念を入れて聞いており、散髪屋や風呂屋などでの雑談や、山人や漁師などの話してくれたことが、論文を書く時の資料にもなったのである。

(※)「闘けい神社」は、正しくは「」です。



 

神社合祀(ごうし)反対運動

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 話はもどるが、1906年(明治39)の終りごろから、第一次西園寺(さいおんじ)内閣は神社合祀を全国に励行し、次の桂内閣もこれを引き継いだ。これは、各集落毎に数々ある神社を合祀して、一町村一神社を標準とせよというもので、和歌山県はとくに強制威圧的に推進しようとした。
 町村の集落ごとに祀(まつ)られている神社は、住民の融和、慰安や信仰の拠(よ)りどころであり、史跡と古伝の滅亡させるもので、また、そこにはほとんど例外なく、うっそうとした森林があった。神社合祀が行われると併合された後の神社林が伐採(ばっさい)されることで自然風景と貴重な解明されていない生物が絶滅するのなどを心配したのである。
 各地で住民が身近な神社の無くなるのを嘆くのを見て、当時、さきがけて合祀反対の立場をとっていた『牟婁新報』の社主、毛利清雅の新聞に反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。
 『牟婁新報』には毎号、反対意見を投稿し、掲載され賑わしたが、さらに『大阪毎日新聞』、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などにも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求める働きかけをした。
 なかでも、東京大学教授で植物の権威、松村任三(じんぞう)に、国・県の神社合祀のやり方をきびしく批判した長文の手紙を寄せた。これを、民俗学者で当時内閣法制局参事官であった柳田國男が、『南方二書』として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けた。
 1910年(明治43)8月、田辺中学校講堂(現田辺高校)で夏期教育講習会があり、主催者側として出席した田村某は神社合祀を進める県の役人で、熊楠はこの人に会おうと閉会式の会場を訪れたところ、入場を阻止されたので、酒の酔いも手伝って、持っていた標本の入った信玄袋を会場内へ投げ込んだ。このことから「家宅侵入罪」で連行され、18日間、未決のまま監獄に入れられた。結局、無罪で釈放となったが、その間本を読み、構内で粘菌を見つけたりした。釈放される時、看守がそのことを知らせると、「ここへは誰も来ないので静かだし、その上涼しい。もう少し置いてほしい」と言って、出ようとしなかったと伝えられている。

 熊楠のひたむきな情熱が次第に世論を動かし、1912年(明治45年)3月、県選出の衆議院議員中村啓次郎が本会議で合祀に関する反対質問を一時間余りもしたり、貴族院議員の徳川頼倫(よりみち)が努力したりして、大正に入ってからは、次第に不合理な神社合祀がされることはなくなり、約10年後の1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議され終息した。
 しかしこの間、熊楠の運動の成果として伐採を免れた神社林は何ヵ所かあるが、かなりの社殿や、森、社叢、原生林が姿を消した。                     
 このため、熊楠はとくに田辺湾の神島をはじめ、貴重な天然自然を保護するため、様々な反対運動や天然記念物の指定に働きかけをした。この戦いは晩年まで続き、熊楠が今日、エコロジ−の先駆者といわれる所以である。

 さきにあげた柳田國男は、日本民俗学の父といわれる学者であるが、1911年(明治44)2月、熊楠が『人類学会雑誌』に「山神オコゼを好む」を発表したことが契機となり、熊楠に民俗学上の質問の手紙を出し、熊楠がそれに詳しく答えたりして、盛んに文通が行われ、この2人の交流は初期の日本民俗学の発展に大きな役割をはたした。
 1913年(大正2)の年末には、柳田は田辺まで熊楠を訪ねてきている。
 翌年7月には、かねてより渡米を要請し、文通をしていた、てアメリカ農務省殖産興業局主任スウィングルが、「学識のある熊楠をアメリカヘ招聘する」との記事が、『大阪毎日新聞』・『大阪朝日新聞』などに掲載され、さらには、福本日南の「出て来た歟(かや)」および「大変物の大学者」が『大阪毎日新聞』に連載されたことにより、熊楠の名声は国内に一度に広がった。
 そのスイングル博士が1915年(大正4年)5月田辺に来遊し、再び渡米を直接伝えた、しかし一時はその要請に答える気持ちであったが、家族の事情もあるとしてことわった。




  

上京前後

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 1916年(大正5)4月になって、借宅の向い側で現在の南方邸の土地家屋(中屋敷町36番地)を常楠の名義で購入した。
 新しい宅地は1,320平方メートル(約400坪)もあり、2階建ての住宅の外に土蔵と長屋2軒があった、また、さらに前の借宅に熊楠が建てていた書斎もここに移し落ち着いた。
 広い庭は、家族や石友をはじめとする人たちの応援のもとに、植物研究園とし、また、亀やカエルなどの飼育の場所とした、書斎は夜遅く迄の執筆活動や植物などの検鏡と整理等の場として、また、土蔵は多くの書籍や資料の収蔵庫として整えられていった時でもある。
 神社合祀が大正の時代に入り強引な合併はされなくなり、社会的な運動は終わるかと見えたが、'田辺大浜台場公園売却の反対'・'和歌山城の堀埋立て反対'・'田辺扇ケ浜の臥竜松の伐採反対'・'闘けい(※)神社に隣接予定の三郡製糸会社の工場設置の反対'など、また県知事官舎にて知事、内務部長、警察部長等に植物保存の講演をして、自然環境保護を訴え、その行動は益々広範囲になった。
 一方、今まで新聞や雑誌に発表してきた自然科学的な論文や「神社合祀問題」などの論考から、民俗学に関する論文が堰を切った怒濤のごとく発表された、1909(明治42)『南海時報』に最初の論考、「鶏の話」を発表してから、『東京人類学会雑誌』、『「山岳』、『太陽』、『考古学雑誌』、『日本及び日本人』、『此花』、『郷土研究』、『日刊不二』、『風俗』、『集古』、『歴史と民俗』、『土の鈴』、『性の研究』、『現在』、『日本土俗資料』、『同人』、『民俗・学』、『彗星』、『旅と伝説』、『岡山文化資料』、『熊野太陽』、『大日』、『ドルメン』などに、また『植物学雑誌』には「訂正本邦粘菌類目録」など、当時を代表する総合雑誌や専門雑誌に数多くの論考を発表した。
 1910(明治43)『大阪毎日新聞』、『大阪朝日新聞』のスウィングル博士による米国招聘の記事や、福本日南による熊楠の紹介の新聞連載などにより、学者や著名人の来訪が多くなり、また執筆活動が多忙を極めたこともあり、野外の植物の研究は自宅の庭で行うことが多くなった。
 この時、かの有名な新属の粘菌「ミナカテルラ・ロンギフィラ」(イギリス菌学会会長、グリエルマ・リスタ−女史命名)を自宅柿の木から発見するのである。
 1920年(大正9)8月には、親しく文通していた、高野山管長土宜法竜(ときほうりゅう)の招きにより高野山に登り、小畔四郎も合流して、約2週間一乗院に宿泊し、菌類などの採集を行いまた、翌1921年の晩秋にも、楠本秀男(秋津に住む画家雅号竜仙)を伴って高野山に行き、約1ヵ月滞在して、菌類の採集や写生を行なった。
 かねてより、南隣家の建物が二階建てに増築され、研究用の植物園を害することもあり、また県知事や友人達が協議することもあって、「南方植物研究所」の基本構想がなり、これをもとに、1922年(大正11)3月、36年ぶりに研究所設立の資金集めのため上京し、8月まで約5ヵ月間滞在した。
 「南方植物研究所設立趣旨書」は田中長三郎が起草し、その発起人には、原敬、大隈重信、徳川頼倫、幸田露伴ら、各界の有名人約30名が名をつらねている。
 募金目標は当時としてはかなり高額で、この基金で、採集した標本の整理や図録の刊行をおこない、今後の研究の充実を図ろうとしたのである。
 熊楠は、上京中、時の内閣総理大臣高橋是清(これきよ)を初めとして、政界や学界の著名人を毎日のように訪ね、協力を依頼した。また、熊楠の上京を知って、多くの植物学者や民俗学者が次々と訪ねて来た。こうして募金には相当の協力を得たのであるが、予定の金額を集めるまでには至らなかった。
 また、この上京中に、学生のころ訪ねた日光へ上松蓊らと出かけ、1週間ほど採集を行なっている。
 帰郷し募金活動を続けるなかで、矢吹義夫(日本郵船大阪支店副長)に南方植物研究所の基金協力依頼をした際、熊楠の履歴を求められたのに対し、その返書の手紙が、「履歴書」と呼ばれているもので、それは熊楠が巻紙に細字で書いた、長さ7メートル70センチ余にも及ぶ長大なものである。
 履歴の内容の豊富さ、学識の豊かさなどの点で、恐らく古今にその例がなく、少なくとも日本一長い「履歴書」であろう。この長文の手紙は3日で書れたようで、熊楠を知るうえにもきわめて重要な自筆資料である。また、柳田國男とも長文の書簡を交わし民俗学の最先端の議論を戦わせた。
 同じ年の1925年(大正14)3月、長男熊弥が田辺中学を卒業し、高知高等学校(現高知大学)受験のため四国へ渡った。しかし、不幸にも高知で発病し、受験を果たさずに、迎えに行った佐竹友吉と金崎卯吉に付き添われ帰宅した。
 熊弥は帰宅後、和歌山の病院に入院したが、その後、自宅で療養することになり、熊楠は表門を閉め、来訪者の面会をいっさい謝絶した。それが1928年(昭和3)5月に京都の病院へ入院させるまで、3年間も続いた。
 東京での募金活動はある程度の成果を得たが、当初の実質的な発起人の一人、弟常楠からの2万円の寄付金の約束が果たされず、また、3万円余りの寄付金が集まった事により、今まで送金があった生活費が停止され、兄弟不和になると共に、病院の費用等もあり生活にも困る状況となった。
 このようなこともあり、1926年(大正15)に、熊楠の著書が3冊刊行された。即ち、2月に『南方閑話』、5月に『南方随筆』、11月に『続南方随筆』が出版されたのである。それぞれは、各誌に発表した論文の集録であるが、熊楠の論調が一貫して読みとれるようになって、熊楠の博識が改めて世人に伝わり、驚かせることとなったのである。


(※)「闘けい神社」は、正しくは「」です。



 

昭和天皇への進講・進献

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 早くから粘菌に注目し、グリエルマ・リスタ−の「粘菌図譜」を取り寄せ見ていた、生物学に御熱心な摂政宮殿下は生物学研究所、服部広太郎博士に生物学御講釈に粘菌標本を御覧になりたいとのことがあり、1926年(大正15)11月、それを知った小畔四郎は熊楠に働きかけ、上松、平沼や東京大学の柴田、朝比奈等も加え、37属90点の本邦産粘菌諸属標本を作り上げ献進者・小畔四郎、品種選定者・南方熊楠の名で進献した。  
 1928年(昭和3)10月、日高郡妹尾(いもお)の国有林の伐採が行われることになり、田辺営林署長の好意で上松と入山し、上松が下山した後、熊楠は翌年1月4日までの約80日間、過労と、寒気で腰部のはげしいリュウマチに悩まされながら粘菌の採取、解剖、標本や図譜の作成に明け暮れた。
 この滞在期間中には今まで知り得なかった新しい菌類をはじめ多数の植物を採集することができた。
 翌年1月5日、妹尾国有林事務所から、厳寒の中、橇(そり)に乗り、針金橋を渡り、川又国有林出張所で宿をとり、翌日、御坊市塩屋の知人、羽山兄弟の妹の嫁ぎ先である山田宅に下山した。43年前の渡米に際し別れに行った羽山家も訪れた後、1月8日、田辺の家に帰ってきた。
 この年、やがて思いがけぬことが起こった。3月の初め、宮城内、生物研究所主任の服部広太郎博士が内々で突然来訪して、天皇行幸の際は粘菌について進講していただけるかとの、極秘の問い合わせがあり、4月末、「多年の篤学の趣き、かねてより聖上に達しあるを以て、今年5月貴地地方御立寄りの節、ぢきぢき御前にて生物学上の御説明の儀仰せ出ださる」との手紙が帰京した服部博士より到着し、熊楠、受諾の返電により確定した。 無位無官の者の進講は前例がなく秘密裡の内に進めていたが、その噂は早くからら広まり、熊楠はたちまち渦中の人となると共に、進講のための標本採集や整理などの準備に追われ多忙を極めた。
 進講の6月1日(昭和4年)は朝から小雨が降っていたが、熊楠は、アメリカ時代から大事にしまっていたフロックコートを着用し、県立水産試験場の船に乗り神島に向かった。 天皇は綱不知(つなしらず)に上陸、この日のためにつけられた「御幸(みゆき)通り」沿道でお迎えを受け、京都大学臨海実験所にて御前講義ののち、午後2時神島に渡られた。
 熊楠は神島の林中をご案内した後、お召艦、長門(ながと)の艦上で約25分間、標本をお見せしながら、粘菌や海中生物について進講申し上げ、更にキャラメルのボ−ル箱に入れた、粘菌の標本110種などを献上した。
 当時、その場に立会った、野口侍従は
 「かねて、奇人・変人と聞いていたので、御相手ぶりもいかがと案ずる向もあったが、それは全く杞憂で、礼儀正しく、態度も慇懃(いんぎん)であり、さすが外国生活もして来られたジェントルマンであり、また日本人らしく皇室に対する敬虔(けいけん)の念ももっておられた」と追懐した。
 熊楠にとって、この日は生涯で最も晴れがましい日であった。帰宅後、直ちにフロックコート姿で松枝夫人と写真館に行き、自分1人だけのものと、頂戴した菓子を妻松枝に持たせ、2人の記念写真を撮り、また、その菓子を親交のあった縁者や知人に配り、喜びを分かち合った。
 翌年には、行幸記念碑建立にあたり、この島が昭和天皇の仁愛と権威により末永く保護されるように願って
  「一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめてましし森ぞ」

と詠んで、自ら一気に筆をふるった。この碑は、繁茂した樹林を背にして、天皇上陸の地点に建てられている。
 1962年(昭和37)5月、昭和天皇・皇后両陛下、南紀行幸啓の際、白浜の宿舎より、30余年前に訪れた神島を望見され、
  「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

と詠まれた。このお歌の碑は、神島を望む、南方記念館の前に建立されている。




 

晩年

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 一代の光栄とした進講と進献の慶事の後は、それまでのような自由奔放な行動が制約されるようになったときでもあり、また、南方植物研究所に対する責任と、身体の衰えが進む中で、青年時代に知った『カ−チス、バ−クレイ菌蕈類標品彙集』や、ロンドンよりの帰国の際に受けた「ジョ−ジ・モレイの励ましの言葉」もあり、今まで採集、整理してきた標本と、弟子達が毎日持ち込んでくる菌類による「日本菌譜」の完成のため昼夜にわたり奮闘し、病気回復の長女、文枝の手助も得て、その写生と注釈入りの図譜作成に超人的に力を注ぐのである。
 しかし、こうした中でも、1933年(昭和8)、'白浜、御船山神社の境内に行幸記念博物館設立'に反対運動し、中止させたり、1936年(昭和11)'田辺町と新庄村の合併'反対など、不合理なことには一歩も譲らず、庶民の福利と固有の文化を守りぬこうとしたのである。
 また、1934年11月、守りぬいてきた神島を一層強固な保護の島にするため、地元四天王と呼ばれる弟子達をつれ神島に渡り詳細な植物所在図を作成し、国の史跡名勝天然記念物の指定申請書を完成させ、県知事を訪れ提出するのである(翌年、三好学博士等が調査に来訪、案内して1936年1月文部省に指定される)。
 1935年(昭和10)、前回の県会議員の選挙で落選した毛利清雅が再び立候補し、熊楠に選挙事務長を頼みにきた。
 両足の不自由な熊楠は渋々承諾したものの奔走することも出来ず、葉書、1018枚を自筆で署名し、また演説会に出席した、しかし、熊楠は応援演説はせず、演壇で頭を下げ、挨拶文を他の者に代読させ、事を済ませたが、熊楠が顔を見せると聞いて大勢の人が集まり、会場にあふれた。それでも大きな拍手をうけたという。
 また、毛利の推せん状の葉書は、記念にと保存する人が多かった。
 熊楠のこうした支援もあって、毛利は悠々当選した。
 1936年、日中戦争が起こって戦局も拡大の一途をたどり、多難になってきことに加え、往年親しき交流をしてきた、毛利清雅や川島草堂、また、生涯の親友喜多幅武三郎らが死去した、そのころから熊楠も体調を崩し、やがて病床に就くようになった。
 しかしそれでも、便所の中で幾度も倒れながらも、「日本菌譜」の完成のため、写生や注釈の書き込みをしたり、手紙による指導を続けた。
 1941年12月、太平洋戦争が始まったころ、いよいよ病状が悪化し、「今昔物語」の扉に「神田神保町一誠堂に於て求む、娘文枝に之を与ふ」と書き残し、12月29日、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最後に、世界が認めた、巨大な在野の学者は、波瀾に富んだ生涯を閉じた。75歳であった。
 いま、南方熊楠は、神島を望む田辺高山寺に、安らかに眠っている。




 

業績

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 日本が、長い鎖国時代から文明が開化していく激動の時代に、日本を飛び出しアメリカに行き、そこでの学問にあきたらず、また、学問に対し自由で貴賎のないロンドンで東西の文献、書籍、美術品や考古学資料などに埋没して、なりふり構わず学問を追求したことであろう。
 そこでは、英国第一の週間科学誌、『ネイチャ−』に「極東の星座」の発表に端を発し、同誌に「拇印考」など50回にも亘る寄稿や、また随筆問答雑誌『ノ−ツ・アンド・クィアリ−ズ』に帰国後もふくめ数百の論考、随筆を寄稿した。
 熊楠自身『ノ−ツ・アンド・クィアリ−ズ』のことについて「小生でなければ解決の付かぬ問題多く・・・」と述べているように、イギリスにおける熊楠の学問的地位は学者の間でも非常に高かったことが伺える。
 持って生まれた人並みはずれの記憶力と、更に、十数カ国に通じる語学力をそなえ、厖大な数の書籍を筆写し、実証的な文献の精密調査と比較文学的検証が相乗的に蓄積され、そこから無尽蔵ともいえる論考や随筆の発表として発展していったのである。
 熊楠の代表作といわれる「十二支考」はその象徴でもある。
 帰国した後、日本の総合雑誌や専門雑誌の多くが登場し、神社合祀反対のこともあって、熊楠はこれらの雑誌に矢継ぎ早に寄稿していった。
 その中でも、特に顕著なことは柳田國男と東西の考証事例を縦横に用いた多数の往復書簡であり、柳田國男を父とする日本民俗学誕生と発展に多大な影響を与えたのである。
 熊楠が心に決めて生涯貫いたのは、あの「カ−チスやバ−クレイ」のことである。このことは、世界に誇る「日本産菌類の彩色生態図譜」の大集成である、5000種の収集を目標に掲げ、4500種、15000枚の彩色図譜が完成し、残り僅かになり継続する事ができなくなった。この中には新属発見の「ミナカテルラ・ロンギフィラ」、「粘菌生態の奇現象」、「魚に寄生する藻」の発見など、菌類、粘菌類、藻類などについて、世界に誇る数々の業績をあげ、その分野の発展に多大な功績をあげた。
 生物学、民俗学、民族学、宗教学など人と自然の関わりを鋭く見てきた熊楠は、地域の人々の心のよりどころの神社や、住民に密着した自然環境の一つである森が強引に合併され、失われていくことに強い怒りを覚え、神社合祀反対運動を展開したのであるが、今日、時が経過したとはいえ、我々は常に心しなければならない問題でもある。
 南方熊楠を尊敬していた小泉信三は
 「在野無援の一私学者でこれだけの造詣と業績とがあったことは、日本の学問の歴史に伝ふべきことである」と賛辞をおくっている。
 熊楠について、世間ではその行動力と奇行が話題にされがちで、本来の学問に対する姿勢や業績はあまり知られていない。
 没後すでに60余年になる今日、ようやく世界的な博物学者で民俗学者などでもある南方熊楠の学問が認識を新たにされ、研究も進められるに至った。
 しかしながら、あまりにも多い資料やそれらに関連する奥の深さのため、今後、解明されねばならぬ事柄も多く残されている。
 (財)南方熊楠記念館は、その遺品、資料、関連書籍などの一部を、一般に公開し、熊楠の業績と生涯を来館者に伝えている。

 本文は平凡社「南方熊楠全集7、8、別巻第1、2」、八坂書房「南方熊楠日記1、2、3、4」、笠井清著「南方熊楠」、講談社現代新書「南方熊楠を知る事典」、雑賀貞次郎筆「南方熊楠先生」、田辺市市民読本、南方熊楠記念館業務資料を参考とした。



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