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14.熊楠は英国より植物標本を船で持ち帰ったとのことですが、当時は今よりも検疫がゆるかったのでしょうか。滋賀県 ゆき様)
1900(明治33)年に熊楠はイギリスから帰国します。その当時日本には現在のような植物検疫制度はありませんでした。この制度が整備されたのは1914(大正3)年のことです。

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 熊楠の日記をみると、神戸港に到着したのは1900年10月15日のことです。
朝早く神戸着無恙(つつがなく)上陸。税関直にすみ、十時過後藤方に着、電信及一状国元へ出す。五時頃常楠来る。
この日記には検疫のことは書かれていませんが、朝早く神戸港に到着後、「すぐに」税関がすんだようです。
こうした植物検疫制度が現在に比べゆるかったため熊楠はアメリカで収集した多くの植物標本を持ち帰ってきました。

熊楠アメリカ時代に収集した植物標本
13.熊楠さんは十手やダンベルのようなモノを持っていたそうですが、武術なども嗜んでいたのでしょうか。(和歌山県 もつ鍋様)
 熊楠の使っていた物のなかに十手やダンベルがあります。しかし熊楠が何らかの武術の使い手であった記録はありません。熊楠の娘である文枝さんへのインタビューによると、

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父(熊楠)は起床すると枕辺の鉄アレイを持って、かけ声よろしく面白い格好で体操をするのが常でした(南方文枝 『父南方熊楠を語る』 34頁)。(熊楠は)若いときは、起きるとアレイを二つと鉄の長い棒をひとつ持って体操をしていました(南方文枝 『父南方熊楠を語る』 35頁)。

このように起床後に独自のアレイを使った体操をしていたようです。そして十手についても述べています。

父は日記は毎日つけておりました。毎晩、枕元へ十手を上にのせて置いておりました(南方文枝 『父南方熊楠を語る』 35頁)。

枕元の日記の上に十手を置いているとは、日記を読まれたり、盗まれたりすることを警戒していたのでしょうか。その他の十手の使い方として、昭和6(1931)年7月の熊楠の日記にはカナリヤの小箱に入った小蛇を十手2本で殺したことが記録されています(南方熊楠資料叢書 『南方熊楠日記[昭和六年・七年] 南方熊楠顕彰館』 95頁)。

・南方文枝 『父南方熊楠を語る:付神社合祀反対運動未公刊史料』 日本エディタースクール出版部 1981年
・南方熊楠資料叢書 『南方熊楠日記[昭和六年・七年] 南方熊楠顕彰館』

亜鈴

十手
12.何か国語しゃべれたのでしょうか?英語は堪能だったのでしょうか?
(和歌山県  おおとど様)
南方熊楠の語学力については、近年さらに研究がすすんでいます。

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志村真幸 『未完の天才南方熊楠』(講談社現代新書 2023年)によると、13ヵ国語は使えたようです。具体例としては、漢文、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、ロシア語、サンスクリット語、ヘブライ語、ポルトガル語、マレー語です(ある程度や一部読めるも含む)。
このなかで熊楠が読み書きの他に話し、聴けたのが英語です。現代のようにTOEICやTOEFLはなったので、客観的にみたレベルがどうだったのか諸説ありますが、ネイティブスピーカーに劣らないくらいできたと思われます。
また熊楠はイギリス時代に多言語を習得しているようです。先に挙げた志村の書籍で紹介されている熊楠の勉強法は、対訳本※を読むことや「日曜以外は日本語・漢文の文章を読まない」と決め、他の曜日で徹底的に言語を学習しています。さらに大英博物館などで「ロンドン抜書」に文献を書き写すことで、多くの言語を学習していったようです。

※対訳本:例えば左のページに英語、右のページにフランス語がレイアウトされている本。

The scientific Memoirs(科学論文抜書)

ロンドン抜書 52巻
11.熊楠さんはアンパンが好きだったとのことですが、どのパン屋がすきだったのか?アンパン以外でも熊楠の愛用品(今も買えるもの)は何ですか?
(東京都  あゆちゃん様)
熊楠が好んだパン屋については、現在情報がほぼ確認できません。

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大正~昭和初期の地元の新聞を見ると、「木村家製パン所田辺分店」「楠本パン製造所」などアンパンを作っているお店を確認できます。ただ、熊楠が前述の2店で買っていたかは不明です。
現在求めることができる熊楠の愛用品では、「安藤みかん(安藤柑)」があります。これはグレープフルーツのような味わいで熊楠が好み、苗木を配ったり、お世話になった方へ送ったりもしていました。安藤みかんは現在田辺市の一部の農家さんが栽培しており、1月頃に直販店で買うことができます。
この他、熊楠はビーフステーキ、ニラの味噌汁、バナナ、岡山の桃などを好んだようです。そしてイギリス留学の経験からか、コーヒーよりも紅茶を好んで飲みました。

大正13年6月22日の紀伊新報

2025年に当館に実った安藤みかん

 

10.南方熊楠は何をしてお金をかせいでいたのですか?家が裕福だったので、援助があったのでしょうか?  (和歌山県 おおとどさん様)
 熊楠は生涯定職についていません。しかし、結婚し家族もでき田辺に自宅もありました。ではどうやってお金を得ていたのでしょうか。

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基本的に熊楠の生活費は“仕送り”によるものでした。まず、アメリカ・イギリスへの留学期は、実家からの仕送りです。イギリスへ移った際お父さんが亡くなっており、それ以降は遺産を月々送ってもらっていました。しかし、それもイギリスでの生活で尽きたため、熊楠は日本に帰ってきました。
そして帰国してからは、実家の「南方酒造(現 世界一統)」を継いだ弟・常楠が生活費を支援していました。
ただ、完全に弟に頼っていたばかりではありません。特に大正2年頃の熊楠の家計は神社合祀反対運動によって逼迫していました。これは神社の写真などを技師とともに撮影していたことやヤケ酒代がかさんでいたようです。そこで熊楠は博文館の『太陽』という雑誌へ論考を投稿し、原稿料を得ました。これが後に「十二支考」となります。

最後に晩年は、熊楠が弟と仲違いしたことで援助を打ち切られます。その際に熊楠は自身の著作である『南方随筆』『続南方随筆』を出版します。その後研究協力者であり、“粘菌学の三羽烏”の一人であった平沼大三郎が生活を支える基金を作り、そこから支援を受けています。

参考文献:武内善信「南方熊楠における神社合祀反対運動の終わりと「十二支考」の始まり」『熊楠研究』第16号 2022年

熊楠が大正15(1926)年に出版した著書
9.アンパンって当時いくらしたんですか? (大阪府 さなテト様)
熊楠さんは、あんぱんが好きでした。特に徹夜で研究をする時には、あんぱんを少しづつ食べていたようです。今回の質問には熊楠さんが田辺に住み始めた頃の値段を考えてみたいと思います。

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あんぱんを開発した銀座木村屋総本店では、約100年前の1923年(大正12年)当時で“2銭5厘”でした。熊楠さんもこれと同じくらいの値段で食べていたのでしょう。

2銭5厘を今のお金の価値に換算すると、160円~200円くらいだと考えられます。そう考えると、少し高いあんぱんを熊楠さんは食べていたようですね。

田辺であんパンを扱っている店の新聞広告
(紀伊新報 1924(大正13)年6月より)

 

8.猫の絵と一緒に何と書いているのでしょうか?
この猫の絵は熊楠が描いたものです。その猫の上には熊楠が「寒の入里(り) 猫もマントを ほしけなり」と詠んでいます。

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猫の前には五徳があることから熊楠が火鉢で暖をとっていることがわかります。そしてその横にはみかん箱を置き、猫の寝床を作りその上に胴着をかぶせた様子を描いています。この句を詠んだのは1925(大正14)年1月20日であるため、「寒の入り」と季語を入れています。

熊楠は同じ構図の絵を度々書いています。

ちなみに猫の名前は「ちょぼ六」と呼ばれ、猫が代わっても同じ名前で呼ばれていました。

7.なんでそんなに天才なの? (愛知県 ゆ様)
熊楠の天才性は「記憶力」と「集中力」によるものが大きいと言われています。

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その常人を凌駕する記憶力は10数ヶ国語を理解し世界中の数多の情報を学び、様々な植物が和歌山県内のどこに生息分布しているかなども記憶していました。そして情報を整理し「書いて発表する力」もすごかったので、天才と言われています。熊楠も「小生は生来脳力がへんな男」(1930年 白井光太郎宛書簡)と述べていて、人とは違っていたことを自覚していました。

 

6.海外でお金はどうしたの?(愛知県 ゆ様)
熊楠が海外留学をする時、実家から学習用や生活費を出してもらっていました。

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そして、熊楠がロンドンに渡航した時にお父さんの弥兵衛さんが亡くなり、熊楠は自分に割り当てられた遺産から生活費を送ってもらっていました。それは当時(明治期)のお金で1万円という金額です。現代の価値にすると合計1億円近いお金を日本から送金してもらっていまます。しかし、そのお金もロンドン時代に使い果たし、実家の酒造業が一時期不振になったことから、送金のない厳しい生活をしていました。時に知り合いの日本人の仕事を手伝ったり借金をしたり返したりしながらの生活でした。そしてどうにも生活できなくなったことで、1900(明治33)年に日本に帰国することになりました。

5.大英博物館を出入禁止になったのは何故ですか?
(奈良県 淳様)
熊楠が大英博物館を出入禁止となった原因は、自身の履歴書(1925(大正14)年矢吹義夫宛書簡)にも次のように書いています。

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小生また怒って人を撃つ。
熊楠はすなわち人を「撃(手、物で叩く)」ったので、それが起因して出入り禁止となりました。熊楠が大英博物館に書いた陳述書によると、一度目について熊楠は相手から度々深刻な嫌がらせを受けており、我慢の限界がきたこと、二度目は女性閲覧者の私語を熊楠が注意したところ、口論から騒動となったようです。
2度の騒動によって、熊楠は大英博物館を出入禁止となったのでした(写真参照)。それでも熊楠は、晩年ロンドンに戻りたいと考えていたようです。

1925(大正14)年1月31日・2月2日付矢吹義夫宛書簡(通称履歴書)・記念館渡り廊下より。

 

4.なぜ山中で上半身はだかになったのですか?
(奈良県 淳様)
南方熊楠の有名な写真の一つに、ご質問にあった「林中裸像」があります。

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写真では、山中で熊楠が肌脱ぎになり、咥えタバコでこちらを睨んでいます(写真参照)。これは神社合祀に反対する強い意志を表すパフォーマンスとして熊楠が撮影させたものです。この写真が撮影されたのは1910(明治43)年1月28日で、この日熊楠は田辺の自宅から写真技師を連れて、現上富田町の八上神社、田中神社、松本神社に赴き、撮影しています。そしてその道中でこの写真を撮影しました。


南方熊楠顕彰館所蔵

3.隠花植物・顕花植物・粘菌類について教えてください
(大阪府 すう様)
●隠花植物とは
花をつけない植物のことです。現在はあまり使われない生物学用語です。

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具体的にはシダ植物、コケ植物、藻類、菌類などがあり、いずれも花をつけず、胞子で増えます。これの反対に花をつける「顕花植物」があります。南方熊楠が研究対象としたのは、隠花植物が多いです。
●顕花植物とは
花を咲かせる植物のことです。例えばタンポポは、花を咲かせ、種子を綿毛で飛ばします。こちらは花が咲くため、繁殖の方法が花⇒種子という目に見えてわかりやすいものです。
●粘菌類とは
現在では「変形菌」が主に使われています。単細胞生物であり、アメーバ状(変形体)で動きエサを食べます。エサの不足、温湿度の変化、紫外線にあたると胞子を飛ばせる状態である子実体(キノコ形やマメ形など)となります。
アメーバ状態では動き、子実体では植物のように動かなくなるという両方の特徴をもつ「原生生物」です。人間のような脳、胃、心臓などの臓器や手足を持っていいません。しかし、エサを見つけ移動し、食べて増殖をする面白い生物です。

2.熊楠さんってどんな人?どんな性格だった?
(大阪府 すーさん様)
南方熊楠は、身長約160cmでガッチリとした体型をしていました。日本人離れした彫りが深い顔をしています。

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ちょっと近寄りづらい感じもありますが、子供が好きで近所の子どもと一緒に写真館で記念撮影もしています。性格はちょっと神経質で繊細なナイーブなようでした。一方で破天荒で荒々しい一面も持っていたようです。熊楠は初対面の人とはなかなか会おうとしないなど、内気な面もあります。そのため、酒を飲んで人と会ったり、意見を言おうとして罪に問われるなど酒に関するエピソードも多いです。

1.オコゼは魚なのになぜ山の神と言われているのですか?
(大阪府 いけしん様)
最初に訂正です。オコゼが山の神と言われているのではなく、山の神への供え物となります。山の神様はオコゼが大好きだという伝説があります。

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では、なぜ好きなのかというと、「山の神と海の神が競い、オコゼのおかげで山の神が勝った。それ以来、山の神はオコゼが好きになった。」というものがあります。
また、山の神様は自分の顔にコンプレックスがあり、トゲのある美しくないオコゼを好きになったという伝説もあります。