南方熊楠の足取り

幼少~在京時代1867年
・和歌山市にて誕生
1873年
・雄小学校入学
1879年
・和歌山中学校入学
1883年
・神田共立学校入学
1884年
・東京大学予備門入学
1886年
・東京大学予備門退学・帰郷
1886年12月
・神戸を経て横浜より渡米


1887年
・サンフランシスコ着
・パシフィック・ビジネスカレッジ入学
・ミシガン州州立農業学校転入
1888年
・ミシガン州州立農業学校退学
1891年
・フロリダ州ジャクソンビルへ
・キューバ島で地衣新種発見
1892年
・ニューヨークからロンドンへ
1900年9月1日
・ロンドン発 帰国


南方熊楠 帰国後の足取り1900年10月15日
・神戸港着 大阪を経て和歌山市へ
1901年
・和歌山市から船にて勝浦へ
・那智から和歌山市へ
1902年
・再び那智へ向かう途中で田辺へ
・田辺湾に浮かぶ神島に初めて渡る
・鉛山村(白浜)湯崎にて採集
・田辺から船で串本へ
・古座川町を経て那智へ
1904年
・那智より熊野古道を経て田辺へ
・田辺に定住

南方熊楠略年譜

慶応3年(1867) 0歳 4月15日(新暦5月18日)、和歌山城下に父南方弥兵衛、母すみの二男として生まれる。
明治8年(1875) 8歳 この頃、はじめて『和漢三才図会』を見て、筆写を始める。12歳の頃までに『和漢三才図会』『大和本草』『本草綱目』の筆写を本格的に行うようになったと考えられる。
明治16年(1883) 16歳 和歌山中学校(現県立桐蔭高校)卒業。
明治17年(1884) 17歳 東京大学予備門(現東大教養学部)に入学、同級生に夏目漱石、正岡子規ら。上野図書館で和漢洋の書物を読む。この頃には、アメリカの「6,000点の菌類標本」の存在を知り、それを超える収集を志す。
明治19年(1886) 19歳 予備門を中退し、2月和歌山に帰郷。12月渡米。
明治20年(1887) 20歳 1月サンフランシスコに到着、8月ミシガン州ランシングへ移り、州立農学校へ入学。
明治21年(1888) 21歳 11月同校退学、アナーバーに移る。この頃より植物採集を本格的に始める。
明治22年(1889) 22歳 「日本のゲスネル(有名な博物学者)とならん」と日記に記す。
明治24年(1891) 24歳 フロリダ州へ移る。さらにキューバに渡り、植物採集をつづけ、新種の地衣「グアレクタ・クバナGyalecta cubana」を発見。
明治25年(1892) 25歳 9月渡英、ロンドンに到着。
明治26年(1893) 26歳 科学雑誌『ネイチャー』に天文学に関する論文を寄稿。土宜法龍と出会い、親交は法龍の晩年まで続く。
明治28年(1895) 28歳 大英博物館の図書閲覧を許可され、蔵書の筆写を開始、筆写ノート「ロンドン抜書」は52冊に及ぶ。
明治30年(1897) 30歳 大英博物館東洋学部長ダグラスの紹介で、孫文と出会い、親交を結ぶ。
明治33年(1900) 33歳 ロンドンより帰国、神戸に到着。弟常楠が出迎える。
明治34年(1901) 34歳 孫文と再会を果たし、和歌浦の料亭で旧交を温める。那智山周辺で生物調査と採集を行う。
明治37年(1904) 37歳 10月那智より田辺へ移る。
明治39年(1906) 39歳 鬪雞神社宮司の娘、田村松枝と結婚。
明治40年(1907) 40歳 「田辺抜書」を始める。全61冊におよぶ。長男熊弥生まれる。
明治42年(1909) 42歳 神社合祀反対運動をはじめる。
明治44年(1911) 44歳 柳田国男より来信、以後文通を重ねる。「ecology」という言葉を用いる。松村任三宛書簡二通が、柳田より「南方二書」として刊行。長女文枝生まれる。
大正5年(1916) 49歳 田辺市中屋敷町に新居を得て終生住む。
大正10年(1921) 54歳 1916年に自宅の柿の木で発見した粘菌をグリエルマ・リスターが新属・新種「ミナカテルラ・ロンギフィラMinakatella Longifilla」と命名。
大正14年(1925) 58歳 南方植物研究所設立の募金のため、日本郵船の矢吹義夫氏宛に通称「履歴書」と呼ばれる長文の書簡を送る。
大正15年(1926) 59歳 『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』を刊行。
昭和4年(1929) 62歳 6月1日昭和天皇南紀行幸に際し、田辺湾神島に御案内。御召艦(長門)にて御進講し、粘菌標本110点等を進献。
昭和5年(1930) 63歳 行幸1周年を記念して、自詠自筆の記念碑を神島に建立。
昭和10年(1935) 68歳 神島が国の史跡名勝天然記念物に指定される。
昭和16年(1941) 74歳 12月29日没。田辺市の高山寺に眠る。