| 「教えて!くまぐすさん」にご質問をいただきましてありがとうございました 「教えて!くまぐすさん」は1階ロビーと2階渡り廊下のカウンターに設置しています。ご来館時ご利用ください ※すべてのご質問にはお答えできませんのであらかじめご了承ください |
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| 11.熊楠さんはアンパンが好きだったとのことですが、どのパン屋がすきだったのか?アンパン以外でも熊楠の愛用品(今も買えるもの)は何ですか? (東京都 あゆちゃん様) |
| 10.南方熊楠は何をしてお金をかせいでいたのですか?家が裕福だったので、援助があったのでしょうか? (和歌山県 おおとどさん様) |
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熊楠は生涯定職についていません。しかし、結婚し家族もでき田辺に自宅もありました。ではどうやってお金を得ていたのでしょうか。
続きを読む>>基本的に熊楠の生活費は“仕送り”によるものでした。まず、アメリカ・イギリスへの留学期は、実家からの仕送りです。イギリスへ移った際お父さんが亡くなっており、それ以降は遺産を月々送ってもらっていました。しかし、それもイギリスでの生活で尽きたため、熊楠は日本に帰ってきました。 最後に晩年は、熊楠が弟と仲違いしたことで援助を打ち切られます。その際に熊楠は自身の著作である『南方随筆』『続南方随筆』を出版します。その後研究協力者であり、“粘菌学の三羽烏”の一人であった平沼大三郎が生活を支える基金を作り、そこから支援を受けています。 参考文献:武内善信「南方熊楠における神社合祀反対運動の終わりと「十二支考」の始まり」『熊楠研究』第16号 2022年 ![]() |
| 9.アンパンって当時いくらしたんですか? (大阪府 さなテト様) |
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熊楠さんは、あんぱんが好きでした。特に徹夜で研究をする時には、あんぱんを少しづつ食べていたようです。今回の質問には熊楠さんが田辺に住み始めた頃の値段を考えてみたいと思います。
続きを読む>>あんぱんを開発した銀座木村屋総本店では、約100年前の1923年(大正12年)当時で“2銭5厘”でした。熊楠さんもこれと同じくらいの値段で食べていたのでしょう。 2銭5厘を今のお金の価値に換算すると、160円~200円くらいだと考えられます。そう考えると、少し高いあんぱんを熊楠さんは食べていたようですね。
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| 8.猫の絵と一緒に何と書いているのでしょうか? |
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この猫の絵は熊楠が描いたものです。その猫の上には熊楠が「寒の入里(り) 猫もマントを ほしけなり」と詠んでいます。
続きを読む>>猫の前には五徳があることから熊楠が火鉢で暖をとっていることがわかります。そしてその横にはみかん箱を置き、猫の寝床を作りその上に胴着をかぶせた様子を描いています。この句を詠んだのは1925(大正14)年1月20日であるため、「寒の入り」と季語を入れています。 熊楠は同じ構図の絵を度々書いています。 ちなみに猫の名前は「ちょぼ六」と呼ばれ、猫が代わっても同じ名前で呼ばれていました。
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| 7.なんでそんなに天才なの? (愛知県 ゆ様) |
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熊楠の天才性は「記憶力」と「集中力」によるものが大きいと言われています。
続きを読む>>その常人を凌駕する記憶力は10数ヶ国語を理解し世界中の数多の情報を学び、様々な植物が和歌山県内のどこに生息分布しているかなども記憶していました。そして情報を整理し「書いて発表する力」もすごかったので、天才と言われています。熊楠も「小生は生来脳力がへんな男」(1930年 白井光太郎宛書簡)と述べていて、人とは違っていたことを自覚していました。
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| 6.海外でお金はどうしたの?(愛知県 ゆ様) |
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熊楠が海外留学をする時、実家から学習用や生活費を出してもらっていました。
続きを読む>>そして、熊楠がロンドンに渡航した時にお父さんの弥兵衛さんが亡くなり、熊楠は自分に割り当てられた遺産から生活費を送ってもらっていました。それは当時(明治期)のお金で1万円という金額です。現代の価値にすると合計1億円近いお金を日本から送金してもらっていまます。しかし、そのお金もロンドン時代に使い果たし、実家の酒造業が一時期不振になったことから、送金のない厳しい生活をしていました。時に知り合いの日本人の仕事を手伝ったり借金をしたり返したりしながらの生活でした。そしてどうにも生活できなくなったことで、1900(明治33)年に日本に帰国することになりました。 |
| 5.大英博物館を出入禁止になったのは何故ですか? (奈良県 淳様) |
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熊楠が大英博物館を出入禁止となった原因は、自身の履歴書(1925(大正14)年矢吹義夫宛書簡)にも次のように書いています。
続きを読む>>小生また怒って人を撃つ。 1925(大正14)年1月31日・2月2日付矢吹義夫宛書簡(通称履歴書)・記念館渡り廊下より。
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| 4.なぜ山中で上半身はだかになったのですか? (奈良県 淳様) |
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南方熊楠の有名な写真の一つに、ご質問にあった「林中裸像」があります。
続きを読む>>写真では、山中で熊楠が肌脱ぎになり、咥えタバコでこちらを睨んでいます(写真参照)。これは神社合祀に反対する強い意志を表すパフォーマンスとして熊楠が撮影させたものです。この写真が撮影されたのは1910(明治43)年1月28日で、この日熊楠は田辺の自宅から写真技師を連れて、現上富田町の八上神社、田中神社、松本神社に赴き、撮影しています。そしてその道中でこの写真を撮影しました。
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| 3.隠花植物・顕花植物・粘菌類について教えてください (大阪府 すう様) |
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●隠花植物とは 花をつけない植物のことです。現在はあまり使われない生物学用語です。 続きを読む>>具体的にはシダ植物、コケ植物、藻類、菌類などがあり、いずれも花をつけず、胞子で増えます。これの反対に花をつける「顕花植物」があります。南方熊楠が研究対象としたのは、隠花植物が多いです。 |
| 2.熊楠さんってどんな人?どんな性格だった? (大阪府 すーさん様) |
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南方熊楠は、身長約160cmでガッチリとした体型をしていました。日本人離れした彫りが深い顔をしています。
続きを読む>>ちょっと近寄りづらい感じもありますが、子供が好きで近所の子どもと一緒に写真館で記念撮影もしています。性格はちょっと神経質で繊細なナイーブなようでした。一方で破天荒で荒々しい一面も持っていたようです。熊楠は初対面の人とはなかなか会おうとしないなど、内気な面もあります。そのため、酒を飲んで人と会ったり、意見を言おうとして罪に問われるなど酒に関するエピソードも多いです。 |
| 1.オコゼは魚なのになぜ山の神と言われているのですか? (大阪府 いけしん様) |
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最初に訂正です。オコゼが山の神と言われているのではなく、山の神への供え物となります。山の神様はオコゼが大好きだという伝説があります。
続きを読む>>では、なぜ好きなのかというと、「山の神と海の神が競い、オコゼのおかげで山の神が勝った。それ以来、山の神はオコゼが好きになった。」というものがあります。 |








