木蓮と蘇鉄

こんにちは閑話猿です。

本日2月1日は昭和12(1937)年に河東碧梧桐が亡くなった日です。

碧梧桐と熊楠については、本年度開催した「熊楠の雑誌展」にて紹介ことをおさらいすると、明治44(1911)年3月にと、昭和5(1930)年6月6日に田辺の南方邸を訪ねています。

最初の訪問では、熊楠の日記に「木蓮が蘇鉄の側に咲く所」という句を書きつけ、2度目の訪問の際に熊楠から行幸団扇の裏へ句を書くよう依頼されました。

この最初の木蓮の句は、南方邸の庭を描写したものと解釈できますが、もうひとつの解釈があったようです。熊楠の宮武省三宛書簡(昭和7年1月7日)から

 

木蓮が蘇鉄の側に咲く所

春ようやく暖かならんとせし時に、眼前に木蓮がソテツの側に咲きおりしを見ての句にて、まずは賦に御座候。ただし氏は温雅な人、小生は麁暴極まる男なれば、それを木蓮と蘇鉄に比したりと見るときは比ともいい得べし(『南方熊楠全集』9巻 386頁)。

 

熊楠はこの句を中国古代詩の6分類六義でいえば、まずは「賦(心情を素直に表現するもの)」といい、人物をあてはめると「比(比喩を用いた表現方法)」だといいます。

明治44年の時はビール瓶を林立させ、碧梧桐と共に神島へワンジュを採取しに行こうとする熊楠が暴れないかと田辺の友人達が後をついていったといいます。それは酔った熊楠が碧梧桐に乱暴しないか、もしそうなったら熊楠を止めるためについていったのでした。残念ながら、この調査は実施されなったそうです。

 

 

昭和12年4月号 月刊『日本及日本人』第347号

昭和12年4月号 月刊『日本及日本人』第347号

碧梧桐追悼録

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