「南方熊楠植物研究所」の挫折や長男・熊弥の病気看護で、晩年の熊楠は心身ともに疲弊していった。しかし、衰えた視力や、手足に代わる妻と娘の協力によって、亡くなる年まで研究を続けた。

太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)冬、体調が悪化し、12月29日午前6時30分、74歳の生涯を閉じた。手には妻がかけたハカマカズラの念珠があった。その夜、彫刻家・保田龍門によってデスマスクがとられた。未亡人松枝は、熊楠の遺した蔵書と原稿など研究資料のすべてを保全し、後世に伝えた。その思いは娘・文枝に受け継がれる。

世界的な学者と評価されながら、著作集の刊行は簡単ではなく、戦後になって、乾元社から『南方熊楠全集』(1951~52)が刊行される。また、顕彰事業を続けた娘婿の岡本清造らによって、昭和40年(1965)、南方熊楠記念館が設立された。

昭和48年(1973)、平凡社から新たに『南方熊楠全集』の刊行が始まり、現代人に読みやすいかたちで熊楠の著作が集成されることになる。平成3年(1991)の没後50年をきっかけに、研究や評伝が数多く刊行されるようになった。

現在、南方熊楠顕彰会による資料目録の整備をはじめとして、研究と顕彰の活動が多方面からおこなわれている。

デスマスク
デスマスク

<strong>熊楠の日記</strong><br> 熊楠は日記帳として、博文館の当用日記を使用している。その日の研究や読書、生物の観察図や記述、自分や家族に起こった出来事、銀行口座の出納から、起床・就寝の時刻、天気、寒暖、発信・受信の記録など、様々な内容を詳細につけている。<br> 13歳から74歳で生涯を閉じるまで、60年にわたって書き続けた。自筆の膨大な資料の中でも、日記は熊楠を知るための貴重な手がかりとなっている。
熊楠の日記