一代の光栄とした進講と進献の慶事の後は、それまでのような自由奔放な行動が制約されるようになったときでもあり、また、南方植物研究所に対する責任と、身体の衰えが進む中で、青年時代に知った『カ-チス、バ-クレイ菌蕈類標品彙集』や、ロンドンよりの帰国の際に受けた「ジョ-ジ・モレイの励ましの言葉」もあり、今まで採集、整理してきた標本と、弟子達が毎日持ち込んでくる菌類による「日本菌譜」の完成のため昼夜にわたり奮闘し、病気回復の長女、文枝の手助も得て、その写生と注釈入りの図譜作成に超人的に力を注ぐのである。

しかし、こうした中でも、1933年(昭和8)、’白浜、御船山神社の境内に行幸記念博物館設立’に反対運動し、中止させたり、1936年(昭和11)’田辺町と新庄村の合併’反対など、不合理なことには一歩も譲らず、庶民の福利と固有の文化を守りぬこうとしたのである。

また、1934年11月、守りぬいてきた神島を一層強固な保護の島にするため、地元四天王と呼ばれる弟子達をつれ神島に渡り詳細な植物所在図を作成し、国の史跡名勝天然記念物の指定申請書を完成させ、県知事を訪れ提出するのである(翌年、三好学博士等が調査に来訪、案内して1936年1月文部省に指定される)。

1935年(昭和10)、前回の県会議員の選挙で落選した毛利清雅が再び立候補し、熊楠に選挙事務長を頼みにきた。

両足の不自由な熊楠は渋々承諾したものの奔走することも出来ず、葉書、1018枚を自筆で署名し、また演説会に出席した、しかし、熊楠は応援演説はせず、演壇で頭を下げ、挨拶文を他の者に代読させ、事を済ませたが、熊楠が顔を見せると聞いて大勢の人が集まり、会場にあふれた。それでも大きな拍手をうけたという。

また、毛利の推せん状の葉書は、記念にと保存する人が多かった。

熊楠のこうした支援もあって、毛利は悠々当選した。

1936年、日中戦争が起こって戦局も拡大の一途をたどり、多難になってきことに加え、往年親しき交流をしてきた、毛利清雅や川島草堂、また、生涯の親友喜多幅武三郎らが死去した、そのころから熊楠も体調を崩し、やがて病床に就くようになった。

しかしそれでも、便所の中で幾度も倒れながらも、「日本菌譜」の完成のため、写生や注釈の書き込みをしたり、手紙による指導を続けた。

1941年12月、太平洋戦争が始まったころ、いよいよ病状が悪化し、「今昔物語」の扉に「神田神保町一誠堂に於て求む、娘文枝に之を与ふ」と書き残し、12月29日、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最後に、世界が認めた、巨大な在野の学者は、波瀾に富んだ生涯を閉じた。75歳であった。

いま、南方熊楠は、神島を望む田辺高山寺に、安らかに眠っている。


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