日本が、長い鎖国時代から文明が開化していく激動の時代に、日本を飛び出しアメリカに行き、そこでの学問にあきたらず、また、学問に対し自由で貴賎のないロンドンで東西の文献、書籍、美術品や考古学資料などに埋没して、なりふり構わず学問を追求したことであろう。

そこでは、英国第一の週間科学誌、『ネイチャ-』に「極東の星座」の発表に端を発し、同誌に「拇印考」など50回にも亘る寄稿や、また随筆問答雑誌『ノ-ツ・アンド・クィアリ-ズ』に帰国後もふくめ数百の論考、随筆を寄稿した。

熊楠自身『ノ-ツ・アンド・クィアリ-ズ』のことについて「小生でなければ解決の付かぬ問題多く・・・」と述べているように、イギリスにおける熊楠の学問的地位は学者の間でも非常に高かったことが伺える。

持って生まれた人並みはずれの記憶力と、更に、十数カ国に通じる語学力をそなえ、厖大な数の書籍を筆写し、実証的な文献の精密調査と比較文学的検証が相乗的に蓄積され、そこから無尽蔵ともいえる論考や随筆の発表として発展していったのである。

熊楠の代表作といわれる「十二支考」はその象徴でもある。

帰国した後、日本の総合雑誌や専門雑誌の多くが登場し、神社合祀反対のこともあって、熊楠はこれらの雑誌に矢継ぎ早に寄稿していった。

その中でも、特に顕著なことは柳田國男と東西の考証事例を縦横に用いた多数の往復書簡であり、柳田國男を父とする日本民俗学誕生と発展に多大な影響を与えたのである。

熊楠が心に決めて生涯貫いたのは、あの「カ-チスやバ-クレイ」のことである。このことは、世界に誇る「日本産菌類の彩色生態図譜」の大集成である、5000種の収集を目標に掲げ、4500種、15000枚の彩色図譜が完成し、残り僅かになり継続する事ができなくなった。この中には新属発見の「ミナカテルラ・ロンギフィラ」、「粘菌生態の奇現象」、「魚に寄生する藻」の発見など、菌類、粘菌類、藻類などについて、世界に誇る数々の業績をあげ、その分野の発展に多大な功績をあげた。

生物学、民俗学、民族学、宗教学など人と自然の関わりを鋭く見てきた熊楠は、地域の人々の心のよりどころの神社や、住民に密着した自然環境の一つである森が強引に合併され、失われていくことに強い怒りを覚え、神社合祀反対運動を展開したのであるが、今日、時が経過したとはいえ、我々は常に心しなければならない問題でもある。

南方熊楠を尊敬していた小泉信三は
「在野無援の一私学者でこれだけの造詣と業績とがあったことは、日本の学問の歴史に伝ふべきことである」
と賛辞をおくっている。

熊楠について、世間ではその行動力と奇行が話題にされがちで、本来の学問に対する姿勢や業績はあまり知られていない。

没後すでに60余年になる今日、ようやく世界的な博物学者で民俗学者などでもある南方熊楠の学問が認識を新たにされ、研究も進められるに至った。

しかしながら、あまりにも多い資料やそれらに関連する奥の深さのため、今後、解明されねばならぬ事柄も多く残されている。

(財)南方熊楠記念館は、その遺品、資料、関連書籍などの一部を、一般に公開し、熊楠の業績と生涯を来館者に伝えている。

本文は平凡社「南方熊楠全集7、8、別巻第1、2」、八坂書房「南方熊楠日記1、2、3、4」、笠井清著「南方熊楠」、講談社現代新書「南方熊楠を知る事典」、雑賀貞次郎筆「南方熊楠先生」、田辺市市民読本、南方熊楠記念館業務資料を参考とした。


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