1900年(明治33)10月15日、45日間の船旅の後、神戸港に着いた。弟常楠が出迎えたが、無銭で蚊帳のような洋服一枚着た兄のあまりにも粗末な姿に驚き、また、何の学位もとらず、おびただしい書物と標本ばかり持ち帰った事にあきれはててしまった。

14年振りの帰国であったが、長男、弥兵衛破産以後、常楠方は経済的に没落しているとのことで、すぐ家には行けず、亡父が世話をしていた大阪府泉南郡にある理智院という寺に案内され、一旦そこに落ち着いた。しかし、常楠方は店も倉も亡父の生存中より大きく建て増し繁盛していると聞き、翌々日、和歌山に帰り弟の家に寄宿した。

ロンドンを去る前、大英博物館の英国学士会員であるジョ-ジ・モレイから、日本の隠花植物の目録を完成するようにすすめられており、帰郷し、ようやく、隠花植物採集などの研究が再び緒についた頃、イギリスで親しかった福本日南より、孫文が横浜居留地に中山樵(しょう)という名前でいることを知らされ、早速手紙を書き、1901年(明治34)2月14日、亡命中の孫文がわざわざ和歌山の南方家まで訪ねてきた。4年ぶりの再会では、あったが、刑事などにつけられ、十分懇談できなかった。しかし、危険をおかし、和歌山を訪れた孫文は熊楠とロンドン以来の旧交を温めた。このとき、常楠父子もまじえて記念撮影をした。

孫文は、和歌山を去る際、愛用のパナマ帽を熊楠に残し、また自分の庇護者である、犬養毅(いぬかいつよし)への紹介状を送ってきたりした。その紹介状はついに使われることなく南方邸に保存され、パナマ帽は現在、当館で公開されている。

孫文とはその後もしばらく文通が続き、ハワイで採集した地衣の標本を送ってきたりしたが、次第に疎遠になり、和歌山での別れが永遠の別れとなった。孫文の死後、熊楠は「人の交りにも季節あり」と記し、親交のあった当時を回想してさびしさを表わしている。

和歌山では、熊楠は常楠の家に1ヵ月余り居候し毎日大酒した。(注:兄弟あきれ果て、予、「酒屋が酒徒を悲しむ理由如何」と問えば、常楠、「いかにも酒屋は酒徒の多きを悦び候へども、家兄のごとく無銭多飲の客はあらずもがな」とやりこめられ返答出来ず。とある)、

その後、淡水藻の一種「光り藻」を採集した、和歌山秋葉町の円珠院(えんじゅいん)に寄宿し、和歌山市付近を歩き回って、隠花植物などを採集し、研究に没頭した。

しかし、座敷を散らかし不潔であるとして寺から出て行くように言われ、常楠の家へ戻ってみたが、やはり弟 常楠の家族としっくりいかず、しばらく熊野へ出かけることを思い立った。帰国後これまで1年ほどの間に、和歌山で採集した隠花植物は、菌類を主に全部で1277種に達した。


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