早くから粘菌に注目し、グリエルマ・リスタ-の「粘菌図譜」を取り寄せ見ていた、生物学に御熱心な摂政宮殿下は生物学研究所、服部広太郎博士に生物学御講釈に粘菌標本を御覧になりたいとのことがあり、1926年(大正15)11月、それを知った小畔四郎は熊楠に働きかけ、上松、平沼や東京大学の柴田、朝比奈等も加え、37属90点の本邦産粘菌諸属標本を作り上げ献進者・小畔四郎、品種選定者・南方熊楠の名で進献した。

1928年(昭和3)10月、日高郡妹尾(いもお)の国有林の伐採が行われることになり、田辺営林署長の好意で上松と入山し、上松が下山した後、熊楠は翌年1月4日までの約80日間、過労と、寒気で腰部のはげしいリウマチに悩まされながら粘菌の採取、解剖、標本や図譜の作成に明け暮れた。

この滞在期間中には今まで知り得なかった新しい菌類をはじめ多数の植物を採集することができた。

翌年1月5日、妹尾国有林事務所から、厳寒の中、橇(そり)に乗り、針金橋を渡り、川又国有林出張所で宿をとり、翌日、御坊市塩屋の知人、羽山兄弟の妹の嫁ぎ先である山田宅に下山した。43年前の渡米に際し別れに行った羽山家も訪れた後、1月8日、田辺の家に帰ってきた。

この年、やがて思いがけぬことが起こった。3月の初め、宮城内、生物研究所主任の服部広太郎博士が内々で突然来訪して、天皇行幸の際は粘菌について進講していただけるかとの、極秘の問い合わせがあり、4月末、「多年の篤学の趣き、かねてより聖上に達しあるを以て、今年5月貴地地方御立寄りの節、ぢきぢき御前にて生物学上の御説明の儀仰せ出ださる」との手紙が帰京した服部博士より到着し、熊楠、受諾の返電により確定した。 無位無官の者の進講は前例がなく秘密裡の内に進めていたが、その噂は早くからら広まり、熊楠はたちまち渦中の人となると共に、進講のための標本採集や整理などの準備に追われ多忙を極めた。

進講の6月1日(昭和4年)は朝から小雨が降っていたが、熊楠は、アメリカ時代から大事にしまっていたフロックコートを着用し、県立水産試験場の船に乗り神島に向かった。 天皇は綱不知(つなしらず)に上陸、この日のためにつけられた「御幸(みゆき)通り」沿道でお迎えを受け、京都大学臨海実験所にて御前講義ののち、午後2時神島に渡られた。

熊楠は神島の林中をご案内した後、お召艦、長門(ながと)の艦上で約25分間、標本をお見せしながら、粘菌や海中生物について進講申し上げ、更にキャラメルのボ-ル箱に入れた、粘菌の標本110種などを献上した。

当時、その場に立会った、野口侍従は
「かねて、奇人・変人と聞いていたので、御相手ぶりもいかがと案ずる向もあったが、それは全く杞憂で、礼儀正しく、態度も慇懃(いんぎん)であり、さすが外国生活もして来られたジェントルマンであり、また日本人らしく皇室に対する敬虔(けいけん)の念ももっておられた」
と追懐した。

熊楠にとって、この日は生涯で最も晴れがましい日であった。帰宅後、直ちにフロックコート姿で松枝夫人と写真館に行き、自分1人だけのものと、頂戴した菓子を妻松枝に持たせ、2人の記念写真を撮り、また、その菓子を親交のあった縁者や知人に配り、喜びを分かち合った。

翌年には、行幸記念碑建立にあたり、この島が昭和天皇の仁愛と権威により末永く保護されるように願って
「一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめてましし森ぞ」
と詠んで、自ら一気に筆をふるった。この碑は、繁茂した樹林を背にして、天皇上陸の地点に建てられている。

1962年(昭和37)5月、昭和天皇・皇后両陛下、南紀行幸啓の際、白浜の宿舎より、30余年前に訪れた神島を望見され、
「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」
と詠まれた。このお歌の碑は、神島を望む、南方記念館の前に建立されている。


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