明治12年(1879)、新設された和歌山中学校(現桐蔭高校)に入学する。熊楠の学歴は、明治時代の新しい教育制度の整備と歩調を合わせていた。

当時「テンギャン(天狗さん)」というあだ名が付いた。採集に夢中になって、何日も学校に来ないので、山へ入って天狗様に連れていかれたとうわさされたからだという説もある。熊楠自身は、自分の鼻が高かったからだと書いている。

和歌山中学では、紀州藩の学者らが教師となっていた。そのなかでも、鳥山啓先生との出会いが、熊楠に大きな影響を与えた。鳥山は日本の古典と西洋の博物学を学んだ開明的な知識人であり、中学校の教科書多数を執筆するなど、西洋の学問普及啓蒙に尽力した人物である。「軍艦」マーチの作詞者としても知られている。熊楠は、自分が先生と呼ぶのは鳥山先生ひとりと語っている。

読書や野外での採集に夢中となっていた熊楠は、学校の成績はあまり良くなかったようである。

<strong>動物学と可所斎雑記</strong><br>「動物学」は、熊楠が13歳の時に洋書を参考に編集・執筆した自作の教科書で、様々な動物の挿絵と解説が書かれている。中学時代の熊楠は、博物学関連の抜き書き帳を作るほかに、複数の書物からの抜き書きを組み合わせた「可所斎雑記」という一冊のノートを編纂している。 これらが東大予備門時代以降の、「南方熊楠叢書」「課餘随筆」などの研究ノートへと深化していく出発点であった。
動物学と可所斎雑記

<strong>和歌山中学校での成績</strong><br>中学時代の熊楠は、成績が抜群によかったわけではない。成績表によると教科全体で、下から三番目であった。教科別では「幾何」「経済」等が最下位。「和漢文」は下から二番目、「英語」は下から三番目で平均以下。平均以上は「生理」「化学」くらいであった。 熊楠は、当時を回想して「物事を実地に観察することが好きで、学校にての成績はよろしからず」と述べている。
和歌山中学校での成績

学校嫌いで図書館大好き(共立学校~東京大学予備門時代)